三河湾東沿岸地域におけるクロマダラソテツシジミの記録と飛来経路の推測 |
杉坂 美典......... |
1 はじめに クロマダラソテツシジミChilades pandavaは,東南アジアに広く分布する種で,ソテツの新芽を食べ,爆発的に分布を広げる種として知られている。最近は台湾,沖縄方面では定着し,本州の各地でも毎年,記録されるようになった。 この東海地方では,三重県の各所で発生し,愛知県の渥美半島にある赤羽根のソテツ並木で発生したことがある。昨年は,名古屋市の鶴舞公園,愛知県庁などで記録され,静岡県の駿河湾沿岸では大発生した。しかし,静岡県の西部にある天竜川以西や愛知県三河部で発生したことはなかった。 私は,2019年,ほぼ年間を通して田原市の蔵王山での昆虫調査を行った。その中で,8月18日の調査では本種は確認できなかったが,9月3日には,3♂♂を蔵王山山頂で確認することができた。その内,1頭は撮影できなかったが,写真撮影ができた2頭(写真1)は,いずれも高温期型で,表面全体に細かい傷がつき,外縁部の黒帯の鱗粉が欠損していることから,羽化したのは,数日前の8月下旬であると思われた。 |
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2 調査方法 ソテツが植栽されている場所(神社,公園等)を探索し,写真撮影や目視によって,個体数とできればその雌雄,発生状況を記録する。 |
3 調査結果
2019年8月18日から12月6日までに得られたデータをまとめると,(表1)のようになった。調査しても観察できなかった場合は,未記録とした。
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4 本種の習性や特徴 本種は,ウラナミシジミ,ヤクシマルリシジミと同じ場所で見られることが多い。そこで,この3種類の習性や特徴を比較した。
(表2)のように,本種は,5m/秒の風が吹いている場合,約8m/秒で移動が可能である。三河湾の蔵王山から対岸の西浦半島までの距離と,伊良湖岬から答志島までの距離は,どちらも約11qである。本種が風に乗りさえすれば,この距離を飛行するのにかかる時間は約23分となる。1日あれば十分に移動できる距離であることが分かった。 |
5 発生1サイクルの必要日数
発生1サイクルとは,母蝶の産卵から次の産卵までの日数である。平井規央先生(2009)の「日本におけるクロマダラソテツシジミの発生と分布拡大」には,「30℃位の高温下では,はやいものは産卵から12日で羽化に至る。」とあるが,この12日間は,羽化して産卵するまでの日数が含まれていないので発生1サイクルの期間ではない。羽化してから卵母細胞が成熟し,受精し,産卵するまでの必要日数は,3日間から5日間程度なので,発生1サイクルは,最短では15日間程度であろう。ちなみに本種を1000頭以上を飼育した専門家に発生1サイクルの日数をお聞きしたところ,多くの個体は,3週間から5週間で,個体による差が大きいことが分かった。しかし,10月中旬では,平均気温は25℃前後であるので,発生1サイクルは,かなり長いものになるものと思われた。そこで,実際に観察して計測してみることにした。
日産マリーナ東海では,10月15日に初めて1♀を確認し,同月16日には交尾を確認し,同月21日には,産卵および多数の卵を確認した。同月28日には幼虫を確認した。11月5日には,終齢幼虫を12頭確認した。 通常,蛹化はソテツの柔らかい綿毛の中などで行われ,羽化の時期を確認することが難しくなるので,この段階で飼育することにし,最も発育の早い終齢幼虫を4頭捕獲した。そして,これらの終齢幼虫は24℃〜26℃の定温装置の中で飼育することにした。 11月8日,2頭が蛹化し,同月9日,残りの2頭が蛹化した。 11月15日,1♂1♀が羽化し,遅れて蛹化した2頭からは,同月19日,1♂1♀が羽化した。蛹の期間は7日間と10日間であった。羽化した♀が交尾して産卵するまでには,さらに3日間が必要とすると,発生1サイクルは,10月21日から11月18日の29日間と10月21日から11月22日の33日間となった。 このように最も発育の早い終齢幼虫を定温状態で飼育しても4日間の差が生じたということは,自然環境の下では,発生1サイクルの個体差は,かなり大きなものとなることが想像できる。 |
6 三河湾東沿岸地域における成虫の1日での最多個体数の推移
調査に出かけた場合は,なるべく数ヶ所を回ってデータを集めた。そして,その日の中で,最も数多く記録できた1つの場所での成虫の個体数をまとめたものが(表4)である。三河沿岸地域全体を本種の発生地域として俯瞰的に見た場合,発生数の全体傾向が把握できると考えた。
(図1) 個体数の変化 (図1)の個体数の変化のグラフから,9月上旬〜中旬に発生する個体群A,10月中旬〜11月上旬に発生する個体群B,11月中旬に発生する個体群C,11月中旬〜下旬に発生する個体群Dに分けられることが分かった。 前述のように,秋季における発生1サイクルが30日前後であるとすると,個体群Bの初期の個体は,個体群Aの子孫である可能性が高い。 個体群Bの後期の個体は,27日前に羽化した個体群Bの初期の個体の子孫である可能性もある。 また,個体群Cは,個体群Bの初期の個体の子孫である可能性が大きく,個体群Bとは兄弟であり,厳しい環境の中で発生が遅れた個体群である可能性もある。 個体群Dは,個体群Bの子孫であると思われる。 12月になってからは,新たな食痕はほとんどなく,終齢幼虫は,葉柄の根元にある綿毛の中で生活し,数多くの蛹を綿毛の中で見つけることができた。綿毛の中は,外気温よりも2〜20度も高く,夜間に気温が低下しても,凍死するのを遅らせることができたと思われる。そして,気温の低下によって,成長の具合も個体差が大きくなり,羽化も遅れ,1月中旬まで羽化が継続することになったと思われる。 |
7 三河湾沿岸地域における分布図
三河湾沿岸地域で発生した本種を発生時期の違いから4つの個体群に分け,発生地点を黒円で表し,その大きさは,発生数に比例させた。
(図2)個体群Aは,田原市蔵王山で記録され,近隣で発生している場所があるはずであるが,見つからなかった。 (図3)個体群Bは,三河湾の東部沿岸地域,および佐久島,渥美半島の太平洋岸で記録されたが,最初に見つかった田原市蔵王山で記録されず,三河湾の西部沿岸地域でも記録されなかった。 (図4)(図5)個体群C,Dは,個体群Bの分布範囲内であり,最終的には三河湾の東部の沿岸地域以外には拡散しなかった。 |
8 飛来経路の推測
(1) 個体群A(9月上旬の蔵王山での記録)の分析9月3日に蔵王山で記録された個体群Aが羽化したのは,数日前の8月下旬であるとすると,発生1サイクルが30日前後であるので,7月下旬に母蝶が蔵王山周辺に飛来し産卵したことになる。 では,その母蝶はどこからやってきたのか。 昨年,発生した名古屋市では,本年は発生していない。静岡県の天竜川以西も,7月下旬以前は記録がない。そこで,私のホームページで情報の提供を依頼し収集すると,2019年の盛夏には,静岡県の天竜川以東の地域と三重県南勢町で発生していたことが分かった。 つまり,(図6)のように蔵王山への母蝶の飛来経路は,AとBが考えられる。 (図6) 蔵王山への母蝶の飛来経路 そこで,7月下旬の蔵王山に最も近い豊橋での風向等を調べる必要がある。 (表5)は,7月の豊橋の降水量・風向・風速のデータである。
飛来経路がAであるとすると,7月24日,28日,29,31日には雨が降っておらず,最多風向は西,西南西で,最大瞬間風速で8m前後,最大風速で6m前後,平均風速で3m弱吹いており,極めて確率が高い。 飛来経路がBであるとすると,雨が降っておらず,東の風が吹いている日は1日もなく,7月30日に東南東の風が吹いているだけで,確率は低い。 したがって,蔵王山周辺への飛来経路はAである可能性が高く,母蝶は三重県から飛来したものと考えられる。 (2)個体群B(10月中旬〜11月上旬の三河湾沿岸一帯での記録)の分析 10月中旬以降に三河湾沿岸一帯で記録された個体群Bは,1ヶ月前の9月中旬にかなり数多くの母蝶が,三河湾沿岸一帯に分散(7か所)し産卵したことになる。 では,その母蝶はどこからやってきたのか。 飛来経路は,次のC,D,Eが考えられる。 ・飛来経路C…三重県南勢町,大紀町で本種の記録が嶋田春幸・嶋田さつき氏(2019),多賀敏正(2019)によって本種の発生が報告されており,ここを基点として,三河湾東部沿岸一帯に広がった。 ・飛来経路D…蔵王山周辺を基点として,三河湾東部沿岸一帯に広がった。 ・飛来経路E…湖西市では10月1日に終齢幼虫が多数見つかっている。これは9月中旬に湖西市に母蝶がいたことになるが,個体数が少ないためか,実際は見つかっていない。一応,三河湾東部沿岸一帯に広がった経路に加えておく。 そこで,三河湾東部沿岸地域一帯への母蝶の飛来経路を分布図で表すと(図7)のようになった。 (図7) 三河湾東部沿岸地域一帯への母蝶の飛来経路 9月上旬から中旬の三河湾東部沿岸に吹いた風を調べるには,伊良湖岬と豊橋での風の方向等を調べる必要がある。 (表6)は,9月の伊良湖の降水量・風向・風速のデータである。
飛来経路がCであるとすると,雨が降っておらず,西南西の風が吹いている日は1日もなく,9月9日に西の風が吹いているだけで,確率は低い。 (表7)は,9月の豊橋の降水量・風向・風速のデータである。
飛来経路がDであるとすると,9月15日までの約半数の日が雨が降っておらず,西南西,南南西,東南東,東の風が吹いており,最大瞬間風速で10m前後,最大風速で6m前後,平均風速で約3m吹いており,極めて確率が高い。 飛来経路がEであるとすると,東の風が2日間しかなく,母蝶も見つかっていないことから,確率は低い。 したがって,三河湾東部沿岸一帯への飛来経路はDである可能性が高く,(図8)のように母蝶は蔵王山周辺から飛来したものと考えられる。 (図8) 三河湾東部沿岸地域一帯への母蝶の飛来経路 |
9 おわりに
本種の食草であるソテツはなかなか新芽を着けず,ソテツが群生していても新芽を着けている木は,1本のみという場合も少なくない。これは,ソテツが新芽を着けるのは,既存の葉が剪定されたり,台風などで折れたりして,葉が欠損した場合だからである。本種は,西尾市吉良港までは拡散したものの,西尾市一色町以西には広がらなかった。これは母蝶が拡散できなかっただけではなく,母蝶が拡散しても食草のソテツが新芽を着けていなかったことにも起因しているように思われる。 ソテツの新芽の成長は非常に速く,1日で30cm程度も伸び,まもなく葉が硬くなり,幼虫は食べることができなくなってしまう。本種の成長が早い個体がいるのは,このことに起因しているように思える。 本種の幼虫の写真を撮っていると,小型のアリが周りに集まっている光景をよく目にした(写真9)。他のシジミチョウ類の幼虫で見られるように,幼虫が尾端から蜜を出すことによって,他の有害昆虫から守ってもらっているように思える。これも分散を拡大するための策略の一つかもしれない。
本種は,愛知県では越冬できたことがない。12月3日は,豊橋市では最高気温が12.5℃,最低気温が7.4℃で,吉良町の発生地では,4頭いた終齢幼虫は仮死状態であった。しかし,寒波が訪れた6日には吉良町では6頭が羽化しており,蛹の状態であればかなりの低温でも生きていることが分かった。昨年1月には,最高気温が3.5℃,最低気温が-2.5℃になっており,今後,気温が低下する中で,いつまで発生を続けるのかを継続調査したい。なお,この論文は,原稿提出期限の関係で,最終的な調査結果までをまとめることができなかったが,その結果は,私のホームページで発表したいと思う。 末筆であるが,論文の執筆に当たり多くの方々から協力を賜ることができた。特に蒲郡市の足立幸子氏は,他の研究者と情報交換をし,数多くのデータを提供してくださった。名古屋市の魚住泰弘氏,西尾市の宮下耕一氏,安城市の小鹿亨氏,東京都の荻野秀一氏,香美市の高月陽生氏,湖西市の白井和伸氏,豊橋市の村田文彦氏には,貴重な情報を提供していただけた。心より御礼申し上げる。 引用文献 ・嶋田春幸・嶋田さつき(2019):めもてふ,三重蝶友会会誌,三重県,3758 ・徐 ?峰(2013):台湾蝴蝶図鑑(中),晨星出版,台北,P.318 ・白水 隆(2006):日本産蝶類標準図鑑,学習研究社,東京,P.336 ・杉坂美典(2019):台湾の蝶,https://sugisaka.sakura.ne.jp/ajia/index-taiwan.htm ・杉坂美典(2019):日本の蝶,https://sugisaka.sakura.ne.jp/nihon/index-nihon.htm ・多賀敏正(2019):めもてふ,三重蝶友会会誌,三重県,3759 ・平井規央(2009):日本におけるクロマダラソテツシジミの発生と分布拡大,植物防疫,第63巻第6号,P.365-368 ・矢後勝也・他(2019):日本のチョウ(増補改訂版),誠文堂新光社,東京,P.179 |